『コーヒーが廻り 世界史が廻る』
だいたい、コーヒーというのは奇体な飲み物である。そもそも体に悪い。飲むと興奮する。眠れない。食欲がなくなる。痩せる。しかし、そのコーヒーのネガティヴな特性を丸ごとポジティヴに受け入れ、世界への伝播に力を貸したのがスーフィーたちであった。彼らは体に悪いことなどものともせずコーヒーを飲み、興奮するためにコーヒーを飲み、眠らないためにコーヒーを飲み、食欲を断つためにコーヒーを飲んだのである。
スーフィズムの精神に深く合致し、スーフィズムの象徴的意義づけを経たコーヒーは、あだおろそかに飲むものではない。スーフィーにとって「コーヒーを飲む」とは、「理念のカフワを享受する」ことである。コーヒーはアッラーの民が隠された神秘を見、啓示を受ける時に飲まれるものなのである。コーヒーはパンや塩と同じように神聖視されることになる。しかし、パンや塩が古来ともに神聖視され、「塩とパン」といった表現が客人に対するもてなしを象徴しているのはその意味では当然であるのに対し、歴史のまったく新しいコーヒーがたちまちのうちにその位置に並び、客人に対する忠誠やその安全を保証する厚遇の象徴となるのは特記すべきことであろう。つまり、ある家に呼ばれてコーヒーを出された客は一日半の間の絶対の安全を保証されたり、敵対関係にある者同士がコーヒーを飲み交わせば、それは同盟の始まりである、といったような生活上の意味づけを帯びていくのである。
身分のいかんを問わず人人が集まって素面で語り合う「コーヒーの家」。そこには、身分制社会の桎梏からもがき出ようとするヨーロッパ近代市民社会が是非とも必要としている新たな、公共的議論の舞台となるべき制度がそっくり存在していたのである。
第二章
コーヒーは決して「自然な」飲み物ではない。ほっておいても犬や猫が飲むという代物ではない。倉庫のコーヒー豆にはネズミも手を出さない。「飲むと眠れない」コーヒーが飲まれ始めるのには、スーフィーたちの特殊な人間的・精神的欲求がそれを必要としたからであった。子供がコーヒーを好まないように、最初からコーヒーが好きであるという人間は少ない。それが大量に消費されるためには、商業資本は人間のうちにコーヒーに対する自然的・精神的な内的欲求を作り出さなければならない。商業資本主義は人間と自然とを内的に変化させる巨大な装置である。コーヒーという新種の飲料の消費を増やすために、財力を備えた商人たちは豪華な「コーヒーの家」を建て、飲み方をデモンストレートし、人間の内的自然に加工を加え、コーヒーへの欲求を定着させたのであった。 まるで飲めなかったコーヒーが好きになるあの感じ それとはちょっと違ぇか 人間の内的自然に加工を加え、コーヒーへの欲求を定着